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これから第8回紅会「田口先生を偲んで」を始めます。
本日の司会は山下です。 |
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みなさんこんにちは。前回2008年の紅会から2年、今回は急きょ田口先生の追悼をということで開催の運びとなりました。短い期間での少ない打ち合わせで、不備な点もありますが幹事一同心をこめて準備してきました。
最後までお付き合いください。(石塚) |
みなさんこんにちは。W杯も終わってようやく寝不足が解消しつつある西村です。本来の予定ですと「オリンピックの年に再会」とお約束していましたが、2年早いW杯年の開催となりました。2年の間隔の効果かどうか、今日は卒業後初めての参加=岡部さん、酒井さん、土肥さん、水口さん、水野真紀さんがいます。また、田口先生ゆかりとしては学年最多4度担任の井上美保さん。反面、三連休の初日ですし、または土曜日は仕事という方も多く、残念ながら欠席した方たちからのコメントがありますので、開会に際していくつかご紹介します。(西村) |
鈴木祐子さん:田口先生のご葬儀では卒業以来のなつかしい友人と再会することができました。30年以上会わなくてもすぐわかるものですね。再会は先生からの贈り物と思っています。 |
泉塩子さん:田口先生のこと寂しい限りですが、皆様の明るい声が先生の元にとどきますように。 |
関口直子さん(シンガポール):前回は出席で田口先生とも隣の席だったようです。皆様で集まれば田口先生の楽しいエピソードが沢山出てくることと思います。大いに盛り上がって「田口先生の人生を讃える会」にしてください。田口先生を偲びつつ、紅会のご盛況をお祈り致します。それでは、短い時間ですが皆さんとともに偲びましょう |
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今日は田口先生を偲んでということなので、ノーネクタイ・ラフなジャケットでやってきました。自分もこういう席にはワイシャツネクタイ背広というのは分かっていますが、田口先生はネクタイが一番お嫌いだったことを思い出しました。(加藤先生・前田先生を見て苦笑。お二人も苦笑)
「乾杯の音頭をとお願いされましたが、こういう時はやはり「献杯」ということでよいですか?と晃一先生ならではの口調で始まりました。
自分の知る限りで、「誰々先生を偲ぶ会」というのは初めてです。それだけかっちゃんのお人柄、34期の卒業生の想いも感じました。
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生前の田口先生の映像です。
桐朋生物研究室で助手として勤務して20余年の真鍋さんが沢山のビデオの中から探してくれました。8分間!!
2005年度中学卒業式での退任挨拶。65期の青、現在は大学2年生の学年です。(高鍋さん、宮坂さん・・・の娘さんの学年です) |
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・・・田口先生の訃報を聞いたときは本当に驚きました。2年前無理をして私たちの元へ足を運んで下さったことを思うと胸がいっぱいになります。当日は仕事で欠席になってしまうかもしれませんができる限り伺いたいと思っています。(佐藤) |
田口先生とはあの後、お手紙のやり取りがありましたが『一時退院後に家族旅行に行かれて、病気をしたことでこの様なささやかな幸せを味わっています』との事でした。残念でなりませんがいつまでも私たちの心の中で生きています。感謝申し上げます。(林) |
田口先生が亡くなったことを初めて知りました。前回の再会から何度か手紙のやり取りをさせていただいておりましたが、とっても前向きに生きていこうとされる反面、志半ばで人生を終えなければならない無念さのようなものを感じていました。少しでも心穏やかに過ごせるようにと祈らせていただいていました。(春田) |
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左の写真:第2回(1981年5月30日)紅会で
右の写真:第3回(1984年7月8日)紅会で
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左の写真:第7回(2008年2008年5月17日)紅会で
右の写真:2010年1月27日ご自宅にて
エイコとミーコと供に〜
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先生ご自身はご自宅で家族だけでと希望されていたそうです。でも国語科の先生を中心にご葬儀の話が進めら「無宗教」「簡素」でということで、仲良しだった小笠原先生の陣頭指揮の下、準備が進んだようです。
幹事としてお手伝いの必要があればと申し出たところ、お通夜・告別式の受付をということで、お手伝いさせていただきました。
実は私たちの娘(渡辺61期紫・黒田66期白)も、この桐朋で田口先生に大変お世話になりました。
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ご葬儀の時の会葬礼には、三つの句が添えられていました。
(奥様から伺った解説と供に) |
門松を 駄句携えて 入るかな
門松・・当初「天国」とか「黄泉の国」としたので、ご家族で反対し、お正月らしく門松にしたそうです。
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節分や 豆の行方は 一個ならず
2/3、白の高3文集に寄せて送った句 |
仙人は 多摩の峰押し さようなら
仙人・・もちろん先生ご本人。
当初は「よいどれは」だったのでこれも家族に反対されたそうです。(・・・この頃はもう耳を先生の口に近づけての口述筆記だったそうです) |
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田口先生というと、私たちの在学中はずっと独身で、あの「桐朋マンション」にお住まいでしたね。卒業後、合コン巡りあったそうです。
西村さんが田口先生の奥様にお手紙を送ったお返事の内容の一部を紹介します。ご家族での様子がうかがえます。 |
三月、光の季節、花の季節となりました。
― 略 ―
事務的雑用をこなすかたわら、何かにつけ夫のことを思い出し、特にここ一、二か月間のことがフラッシュバックしてくると、涙をおさえられません。
夫のマイペースと私のスローな性格とで、私たち夫婦はずい分長い時間語らってきたように思います。
夫は家が大好きでいつも家にいました。現役の時もご近所の誰よりも早く帰宅して子供遊び、ニコニコしていました。
大好きなお酒を飲みながら、仕事のこと、文学のこと、子供のこと等々、何時間でも話は続きました。桐朋のこともよく話題になりました。
だから、失礼ながら教え子の皆さんが、まるで私の知り合いのように思えたりするのです。
のんびり、ゆっくりが信条のひとだったのに、あっという間に逝ってしまいました。
それにしても、気持ちのよい生徒さん達に恵まれ夫は幸せだったと思います。
―― 後略 ――
平成22年3月1日
田口祥子 |
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都合により今回の紅会に参加できないけれど、メッセージを下さいました(タカナ・もっちゃん) |
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田口勝義先生を偲んで
ある時関田先生が3人でイタリアにでも旅行しようかということになり、私と田口さんが慌ててパスポートを取る事になった。出発までわずかな日しかなかったことを思い出します。このへんから3人の飲み会や旅行が始まったのです。
皆さん、こんにちは!今日は先約がありまして、誠に申し訳ないのですが欠席いたします。私からのメッセージをこのようなかたちで読み上げていただくことをお許し願います。
カッチャン(田口勝義先生の愛称)とのお別れからもうすでに5ヶ月が過ぎました。今でもカッチャンの入院先であった八王子消化器病院の前を通るたびに、数々の事柄が思い出となって甦ってきます。
ローマでの思い出、アッシジでのクリスマスイブの夕食は、どこもお店が開いておらず、ホテルで寂しくまた楽しく、日本から持って行ったカップラーメンを三人ですすった思い出・ハワイのワイキキビーチで夕日を浴びながら三人で泳いだ時の事・一緒に学年を組んだ時のこと、そして仙川で飲み歩いたこと、私が酔い潰れてしまい京王片倉駅まで送ってくれたことなど、どれも忘れがたいことです。今でもあの頃のことが走馬灯の如く次々と展開し涙が出るほどとても懐かしい思い出として残っております。
今年の正月、数人で入院先のカッチャンを見舞った時、「春になったら関田先生を交えて、また皆で飲みに行きましょう」「仙川は遠くて行くのに疲れるから八王子で飲みましょう」ともいっておりました。皆で早く桜の咲くのを待ち望んでおりました。しかし遂に桜を見ずにカッチャンは早すぎる旅たちでした。飲み会はひらかずじまいになりました。とても残念でなりません。
いつもメガネの奥底からニコッと笑う姿が忘れられません。そんなカッチャンは、多くの生徒から好かれておりました。多くの生徒は田口先生を「カッチャンとかチグタ」とか親しみを込めて呼んでおりました。おそらく多くの生徒からは先生と呼ばれたことが無かった・そのくらい生徒からは愛されておりました。お通夜の日・告別の日途切れることが無く参列者がお見えになりました。この事だけでもカッチャンは生徒から好かれ・どれだけ愛されていたかがよくわかります。
今年の1月6日に真鍋さんやツズラバラさん(事務の方)と三人で見舞いに行った時でした。
「オガサン、後は(もしも死んだ後は)、全てを頼みますよ・オガサンはここから家も近いことだし」とおっしゃられました。帰り際に再度「よろしくね」と念を押されました。私は絶句してしまい何も答えられませんでした。驚きました。一人で帰る道すがら涙が止まりませんでした。
その後二・三度病室を訪ねました。お会いする度ごとにだんだんと痩せてきましたが、何故かお顔だけは優しく見えました。穏やかな表情でした。
2月8日、田口勝義先生のご逝去の訃報が奥様から入りました。実はお亡くなりになられたのは2月6日だったそうです。本当は多くの方々にも知らせずに数人の友達と家族だけでそっと見送りたいと思われたとのことでした。本人のご意思によるとのことでした。
カッチャンは、今頃は懐かしい方々とお会いしていることでしょう。今頃は、天国で生江義男元校長先生や小池キイチ先生など多くの先生方と楽しくお酒を酌み交わしていることでしょう。遠い将来・近い将来私も行きます。その時は春まで待っていました飲み会をやりましょう。
カッチャン さようなら 合掌
平成22年7月12日 小笠原邦夫
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田口先生が「ケゲゲの鬼太郎」をいつも歌っていた事が印象的だった、としみじみと語っていました。田口先生のネクタイ姿はほとんど見たことがなかったけれど、私は逆にネクタイをしないことがほとんど無いので、今日もそのままのネクタイ姿が自然かと、このような出で立ちでやってきました〜。と、みんなの相づちをもらっていました。(確かにネクタイのない加藤先生は加藤先生じゃない・・・かも?) |
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田口先生はどんな時も生徒にはいつでも誠実に接していた。私もそうでありたいと常々思い実行してきたつもりです。今年最後の年になりました、とお話しされました。
(我々紅会のみんなに関係のあった最後の先生も今年で定年ということです)
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今私は56才 皆とあまり変わらなく、田口先生はお兄さんの様な存在でした。
桐朋教育研究所が発行してる 「中国の風」を持参してくれました。先生方(当然田口先生も一緒に)と中国を旅したことがとても楽しく思い出深いと話されていました。
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いつもマイペースで、それが許されてしまう田口先生が羨ましく時には嫉妬していましたと。
(50才になった私達が聞くとわかる先生のお話でした。) |
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田口先生はいつもラフでネクタイはしていなかったので、今慌てて外しました。と田口先生との思い出の話をされました。
現在は実務書道をしていて、「ただ字を書けばよい」というのではなく、その人を思い浮かべて書いています。桐朋の卒業証書も頼まれて毎年書いているが、昔の君達の顔を一人一人思い出して書いている。だから顔も知らない何の縁もない方の表彰状などは辞退していると言う事でした。(なおち〜前田先生らしいお話でした)
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久しぶりの校歌〜
それぞれどんなことが頭に浮かんだのだろう〜 |
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九州福岡から来ました〜
名ばかりの幹事から「紅会HP」の作成・管理をして少しだけ貢献しています、とHPの紹介をしました。
東京は元より、地方や外国に住む紅会のメンバーをつなぐ役に立てたら嬉しいです。
みんなの活躍も沢山紹介していきたいです!メール待っています〜!(藤澤) |
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今回の紅会を開催するにあたり、準備期間が短く皆様に満足いただけたものになったかどうか心配です。
でも、幹事みんなで一生懸命準備してきました。沢山の方に参加いただいて、懐かしいお顔も拝見できたこと、とてもうれしく思っています。田口先生も、きっとニコニコ笑いながら、どこかから私たちの様子見てくださっていると思います。
次回の紅会開催が2年後か4年後かまだわかりませんが、みんな、また元気に会いましょうね! |
私はいま桐朋会(同窓会)の役員をしています。来年は桐朋会創立65周年の年にあたり、記念同窓会が開催される予定です。
同窓会の情報や、桐朋の今の様子などお知らせしていけたらと思っています。また、住所変更等などされた時には、紅会・桐朋会どちらかに必ずご連絡下さい。ご協力よろしくお願いします!(黒田) |
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集合写真撮影!!
写真係タカナも入って写したい〜と食堂のおじさんにカメラを渡して撮ってもらうことに〜おじさんたらデジカメなのに「巻くのはどこ〜?」といってやたらとクルクル回しちゃうんです〜おかげでピントが合わない写真になっちゃった〜(トップの写真として使えませんでした〜タカナ〜ごめん) |